2006年06月28日

こころ

 今日は、2時間目の授業終了後に昼食を食べに三田市まで。
三田屋本店ぬくもりの郷でランチ・ステーキを堪能してきました。

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 運ばれてきた熱い鉄板にのったお肉。目の前で焼き具合を確認しながら
食べ頃を見計らって…、柔らかくて美味しかったです。

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《一昨日の授業より》
 こころについての授業がありました。心がわかる、心ない仕打ち…
心が通じる、以心伝心の状態って?と考えると、こころがわからなく
なってしまいます。

 以前に社会学が専門の先生から、日本語の「悲しい」は”兼ねしい”が
転じたものだと聞いたことがあります。他者の苦しむ様子を見て、もし
その人の苦しみを私が兼ねる(分かち合う)ことが出来れば、その苦しみを
共に担う(兼ねる)ことが出来ればと切に願うが、しかし、その人の苦しみ
をほんとうの意味で理解して分かち合う(兼ねる)ことは、他人の私には
出来ない。あなたの苦しみを私が分かち合うことが出来ないこと、そのこと
が今の私には苦しいことである。「兼ねることが出来ない」、「兼ねしいが
転じて「悲しい」となったそうです。

 逆にsympathyは、"sym-"と"passion"という言葉で"passion"(感情)を
重ね合わせ、響かせること。他者の喜びや悲しみを、自分の喜びや悲しみ
とすることがsympathyという言葉の持つ意味を持つ言葉だと聞いたことが
あります。

 「こころ」の原点って、教育の原点でもあるのかなあ〜と感じました。

posted by student at 19:56| 日記

2006年06月27日

花菖蒲&鮎

 今日は午後から薄日が射して、梅雨の合間のような一日でした。
授業終了後に、宍粟市(旧山崎町)の播州山崎花菖蒲園へ。中国
自動車道の山崎ICから北へすぐ。揖保川沿いの山あいの谷間一面が
花菖蒲で埋め尽くされます。もう花のピークは過ぎていましたが、
今年は花の時期が遅れてたので、じゅうぶん楽しめました。

 揖保川の鮎を堪能してから菖蒲園へ…

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 菖蒲にはいろいろ種類があって、江戸系とか、肥後系とか…
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 一面の菖蒲のいろいろな花を撮りましたが、いろいろな種類があるので
飽きることなく、デジカメのメモリーが一杯になってしまいました。

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 紫陽花もきれいでした。

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 白い菖蒲の花は、なかなか綺麗に撮れないのですが、雲の合間から
薄日が差し込んできた瞬間に逆光気味で撮った一枚が、結構気に入って
います。

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 遅目のランチは揖保川の鮎、夏御膳というメニューでした。品数が
多くて、それほどボリュームがあるとは思わなかったのですが、結構
満腹になってしまいました。

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posted by student at 20:37| 日記

2006年06月24日

ethnography

《今週の授業より》

 ”ethno-”という言葉の語源は、ギリシア語の”ethnos”だそうで、
ポリス国家の市民に対して、それ以外の人々を指し示す言葉だった
そうで、ニュアンスとして異邦人や異端というような言葉に該当する
言葉が発端だそうです。
 19世紀には人種というような意味合いで用いられ、差別的な意味を
持つ(人種差別というようなコンテキストでネガティブな言葉として)
言葉であったが、現在は一般的な意味での”民族”を意味する言葉と
なったのですが、根底にはマイノリティーの人々を扱うような意味が
まとわりついているのも事実だそうです。

 昨日の授業では”関係の中での意味づけ”という内容でしたが、
同時的な”場”としての”人と人との関係”や”共同体との関係”だけで
はなく、”時間との関係”という視点を新しく学びました。

 「過去を背負いながら、そして未来へと向かいながら今・現在を生きる」

 今まで、場の中での関係と、時間の中での関係を統合して考えた
ことがなかったので、新鮮な思いで授業を受けることが出来ました。



 私がethnographyに興味を持ったのは、大渕先生の授業の影響では
ないかなあ〜と思います。

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 もう十数年になります。久し振りに講義のノートを取り出して
まじまじと読み返しました。大渕先生の授業の影響で宮本常一を
読むようになったり、網野善彦や阿部謹也の著作に触れる切欠に
なったんだろうなあ〜と思います。

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 最近読み始めて、ちょっと中断している本に「最暗黒の東京」という
本があります。著者は松原岩五郎で、明治中期に当時の東京の街の
貧民窟と呼ばれていた下谷万年町、四谷鮫ヶ橋、芝新網町等の界隈に
で、実際にいろいろな仕事を経験しながら庶民(下層民)暮らしぶりを
描いたものです。

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posted by student at 09:42| 日記

2006年06月23日

人と人とのあいだ

 3日前の授業で、「シングル・セル」という小説のことを連想
したのですが、十年ほど前に、この「シングル・セル」をもとに
当時勤めていた埼玉県の公立高校の文集に寄稿した文章を見つけ
出しました。

 平成5年の4月から翌3月までの1年間通った三郷市から川口市
までの電車通勤での光景と、学校の教室での光景を重ねたものです。

 今読み返すと、あの頃は若かったなあ〜と感じました。


              『人と人とのあいだ』

 朝の武蔵野線、東浦和から南浦和までの一駅の区間では息苦しいほど混雑することがある。南浦和で扉が開き、京浜東北線への乗り換えの人たちを吐き出すまでの数分間は、狭い車内に人と人とが密着するような状態。しかし、誰もが無表情で互いに目をあわせることもなく、それぞれの視線は宙を彷徨っている。たくさんの人が密集しているのに、そこにいるひとりひとりの間には、互いに何の関係もなく、そして何の関係をも持とうとはしない。ばらばらな「個(弧)」の集合体である。

 増田みず子の『シングル・セル』、私にとって心に残る作品である。題名の「シングル・セル」は単細胞のことであるが、作者は弧細胞という言葉を用いている。梗概は省略するが、作品の中から印象的な幾つかの言葉を紹介する。

  …弧細胞です。孤独の弧。植物や動物をね、ばらばらにほぐして、
  一個ずつの細胞状態にしてしまう。余分なものを除いてしまった
  純粋な細胞にしてやると、いろいろと命のしくみが見えてくる。

  …化学処理によってシングル化した細胞も、そのまま放置して
  おくと、二個三個と再び寄り添い、集合して、やがて固まってしまう。
  だからそうさせないためには、攪拌し続けねばならない。

  …シングルセル化した細胞は、条件さえ整っていれば、確かにそれ一個
  で活き続けるから、独立した生物とも言えるが、しばらく生きてる
  うちに、細胞壁が異常に肥大して、つまり身を守るカラが厚くなり
  過ぎて、やがて窒息死してしまう。外から栄養分を取り入れることが
  できなくなってしまうのだ。細胞壁が厚くなるのは、もろい中身を
  守るための、過剰防衛である。

 最近、いろいろな場面でシングル・セルを連想する。満員電車の中、繁華街の人混みの中、教室の中…。人がたくさん集まれば集まるほど、ひとりひとりの貌がぼやけ、集合体としての貌が浮かび上がってくる。シングル・セルの寄せ集めでは明確な集合体の貌を持たず、無表情な貌にしかならない。逆に、ひとりひとりが互いに良好な人間関係を持っている場合、その集合体は活き活きとした貌を持つ。集合体の貌が活き活きしているか、無表情かは、集合体を構成するひとりひとりの人間関係によって決まるのではないだろうか。

 友達とのあいだ、家族とのあいだ、クラスメートとのあいだ…一度じっくり考えてみたらどうだろうか。「あいだ」を考えることは、自分自身を見つめることでもある。
posted by student at 19:55| 日記

2006年06月19日

個・弧

 加東市のバイパス道路沿いに広がっていた麦畑、日の光を浴びて
黄金色に輝いていた光景が、麦刈りがほぼ終わって見ることが出来なく
なりました。…麦秋。
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 麦刈りが終わった麦畑の隣には、田植えが終わったばかりの田んぼが
広がっています。バトンタッチ。

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《今日の授業より》

 20年前に泉鏡花文学賞を受賞した増田みず子の「シングル・セル」
という作品があります。長く目を通していませんが、今日の授業を
受けて、この作品のことが頭に浮かびました。
 この作品でシングル・セルは「単細胞」ではなく「弧細胞」と表現
しています。そして社会の中で関係を求めずに孤立していく姿を重ね
ようとしています。

 教育の目標として「自律的個人の完成」を挙げることが出来ると
思います。社会(世間)の中で他者と関係を持ち、互いにコミット
しながら共通理解を深め、自律的存在として確立していく「個」を
育てること。

 「弧」に陥ることなく自律することこそが、「個」なのかも
しれません。

 
posted by student at 20:31| 日記

2006年06月17日

手応え

 我が家のオーディオ機器は十数年以上買い替えていません。スピーカが
一番古くて昭和時代に、当時住んでいた千葉・柏市の会社の寮の時から20年
近くなります。英タンノイ製で、弦楽器は艶のある音を鳴らしてくれます。
特に チェロの響きが良いです。ゆったりしたボーカルも 味のある歌声を
聞かせてくれています。

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 アンプは、秋葉原のラジオ会館で購入した真空管式のキットを組み立てた
モノで、6BX7という双3極管を使っています。3極管の管球式アンプは
音が軟らかくて、心地良い耳障りの音を奏でてくれます。これも、もう15年
以上使い続けています。

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 アンプもスピーカも買い替えたいのですが、ちょっと良いなあ〜と思うモノは
数十万円以上の値段。ちょっと贅沢かなあ〜と、今のモノを、まだしばらく
使い続けることになると思います。
 チェロ奏者の溝口肇さんの、かなり古いCDです。結構 気に入って時々聞いて
います。

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 《今週の授業より》

 学校教育を考えると、学習内容のメニューは学校が用意してくれます。
「今、学びたいこと」というより、用意された体系的な学習メニューに
沿って「今、学ぶべきこと」を勉強していることになります。

 興味・関心・意欲を考えると「今、学びたいこと」を生徒自らが自律的に
学ぶことが良いようにも思いますが、でも、(語弊があるかもしれませんが)
目先の興味や関心を満たすだけの学習内容を散発的に繰り返しても、雑学的な
知識でしかないようなこともあるかもしれません。

 雑学…でも大切なことのようにも思います。少なくとも嫌々暗記すること
は稀でしょうし、内容に興味・関心があって、自然と記憶したり身について
いることですから、「雑学の習得」に見習うべきことが多いように思います。

 後になって「あの時、しっかり基礎基本を勉強しておけばよかった」と
後悔したことが私は多いですし、そういう体験談を耳にすることが少なくあり
ません。ほんとうに大切な学びって与えられた「今、学ぶべきこと」に、
しっかりと盛り込められているはずですから…。

 「手応え」という言葉が適当かどうかわかりませんが、自分でそれほど
学力が高いと感じていない生徒にとっては、与えられた課題を学び、それを
習得することが目先の満足感につながり、安心して続けられる「手応えの
ある学習」であるように感じます。

 学習のスキルが高い生徒にとっては、むしろ、自ら課題を設定・選択して、
自律的に学び、成果を得て、その成果を自己評価でき、将来への展望が
出来れば、物凄く手応えのある学習であると思います。

 手応えを感じる「学び」や安心感のある「学び」というのは、生徒の持つ
学習のスキルに応じて、適・不適が異なるようです。 
posted by student at 12:40| 日記

2006年06月15日

モチベーション 確かな学力

 今朝は、布施畑ICから淡路鳴戸自動車道に入って、山陽自動車道の
小野三木ICまで高速道路で通学しました。授業前に100キロ近い
スピードで走ると、モチベーションが上がって、気分爽快で授業を
受けることが出来て良いのですが、高速代が片道800円(軽なので)。

 三木SAでは、遠足か修学旅行の小学生のバスのトイレ休憩で
賑わっていました。通学で高速道路を使って、授業1時間前に
大きなサービスエリアに寄るのは不思議な気分です。
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《今日の授業より》

 学校の勉強が、世の中で役に立つのか…? そのまま役立つことも
ありますが、学校で勉強する多くの内容は、そのままでは役立たない
ことの方が多いように感じます。でも、そのまま役立たなくても、
ものの見方や考え方がしっかりして、本質を見抜く力をつけることが
大切だと思っています。

 ものを見る…ただ眺めるだけではなくて、しっかりと、そのものの
在り方・意味を読み取る力であり、美的な鑑賞力を含めて、しっかりと
向かい合うことでもあると思います。

 ものを考える…ただ漫然とアレコレ考えるのではなくて、体系的に
論理的に考えて、意味をしっかり表現する(書いたり話したり)ことを
含めて「ストーリー(物語)化出来る力」と言えるかもしれません。

 ものを見るって、文章を理解すること。数式を理解すること。図面を
読み取る能力。音楽や絵画や演劇の鑑賞力。

 ものを考えるって、自分の知識をベースに新しいアイデアを創出する
力。そのアイデアをわかりやすく表現するためにストーリー化する力。
漠然と頭に浮かんだイメージを、他者に伝えるために、体系化して
論理的な意味付けをする能力。

 「確かな学力」というのは、しっかり見る力と、しっかり考える力を
養うことではないかなあと思います。
posted by student at 21:37| 日記

2006年06月10日

スキル

 梅雨に入りました。我が家の庭は、今年の正月休みに植えたモノが
咲き誇っています。

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 これはニンジンの花。ニンジンの葉っぱの部分を庭に植えていたのが
花咲きました。

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 これもニンジンの花です。JAの直売で買うと葉っぱ付きだったりする
ので、葉っぱの形は知っていましたが、花は、じっくり見るのは始めて
です。残念ながらしっかり耕していないので、土の中ではニンジンは
成長していないと思います。

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 これはツリガネ草だそうです。花の名前は、大先輩から教えてもらい
ました。梅雨に入って淡い色が、映えています。

 …実は、今日の写真はmixiの二番煎じです。
私のmixiのURLは、http://mixi.jp/show_friend.pl?id=2816142 です。

《今週学んだこと》

 スキルという言葉を耳にすることが時々あります。新聞の通信教育
の宣伝文句に使われたり、専門学校のPRの中に出てきたり、就活の報告
や感想やアドバイスの中にスキルの重要性が謳われたり…

 辞書を見ると、技能とか技量という言葉が出てきます。専門性の高い
資格を習得したり、英会話が出来たり、コンピュータを扱えたりする
ことが、今、世間で言われているスキルのニュアンスのような気がします。

 ある分野の知識をしっかりと持って、その知識を使いこなせることが
出来ること。そんな感じで使われることが多いような気がします。
暗記して、「とにかく覚えた」というのは、どうもスキルではなく、
その知識を使って自分なりに応用が出来たり、仕事に活かせたり出来る
技量を備えている状態のようで、スキルを向上することを「スキルアップ」
と言うようです。

 学校教育って、基礎基本をしっかり理解して、人間育成をする場。
スキルって通信教育や専門学校の専売特許ではなくて、幼稚園から
小学校、中学校、高等学校を通して養われる学力というものも、広義の
スキルと捉えることも出来るのかもしれません。

 小中高でしっかりと勉強していれば、就活に際して、スキルスキルと
あわてることもないようにも思います。
posted by student at 07:26| 日記

2006年06月08日

前期の折り返し地点〜一服モード

 6月に入って晴れが続いていましたが、今日は午後から雨。
日が沈んでからも、結構降り続いています。もう梅雨でしょうか?

 前期も折り返し地点(時点)を向かえて、食いしん坊の面々が
加東・社の嬉野の山の中から、神戸・垂水の海沿いの鮨屋さんまで・

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 私の大好きなサザエの壺焼き。

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活タコのお造りも、当然必須メニューです。

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 お鮨、分厚いマグロの赤身がとろけるように美味しいです。


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posted by student at 20:17| 日記

2006年06月05日

消極教育

 共通講義棟の裏、情報処理センターの北側辺りは、結構鬱蒼と
した空間があります。大学構内とは思えない自然な感じの景色を
楽しむことが出来ます。

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 今タンポポが、構内の至るところで咲き乱れています。
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 この木も共通講義棟の裏辺りです。、実は最近、この附近に車を
駐車することが多いです。

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 この木の辺り一面もタンポポが咲き乱れています。

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 図書館の前辺りです。梅雨に入るまでの期間、可憐な花が楽しめ
そうです。

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《今日の授業より》

 消極教育。この言葉を最初に聞いた時の第一印象と、実際の言葉の
指し示す意味が、かなり違っていました。

 子供自身の中の”光”を大切にして、大人の規範や価値観を強いない
教育。子供の自律を尊重して、外部からの悪い影響を防ぐ程度のことが
教師の役目。

 自然が善なのか、それともエゴイズムに支配された感覚的なもの
なのか?

 …今、研究テーマを模索して彷徨する中で、今まで自明だと思い
込んでいたことも、改めて考え直したりしています。


   見ているだけで 何も描けず
   一日が 終った
   こんな日と
   大きな事をやりとげた日と
   同じ価値を見出せる
   心になりたい
           星野富弘・詩画集より 

posted by student at 20:33| 日記

2006年06月02日

春から夏へ

 大学の構内は、春から夏への季節を迎えようとしています。
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 木々は若葉が生い茂って、6月の強い日差しに、まだ若々しい緑を
眩しく放っています。

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 天中高くさえずる雲雀のさえずりを聞きながら朝日に輝く緑を
眺めていると、夕日が嬉野を真っ赤に染める時まで、あてもなく
散歩したいなあ〜と思ってしまいます。

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 野の草花も、今、可憐に美しく、構内のあちこちで咲いています。
自然な芝生が多いので、いろいろな低草の花々を、この時期には
楽しむことが出来ます。

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《今日の授業より》

 抽象的な概念って、具体的なモノと違って指し示すことが出来ま
せんので、個々の頭の中のイメージになってしまいます。人生経験や
具体的な体験や文化によって、同じ言葉で表される概念のイメージが
個々の頭の中で多少違ったり、大きく異なったりしてしまいます。
いろいろな言葉を使って、いろいろな例を使って、互いのイメージを
近づけることは出来ても、まったく同一にすることは不可能なのかも
しれません。それは、個々のセンスや感性ということになるのかも
しれません。

 同じ音楽を聴いても、同じ詩を詠んでも、同じ風景を見ても、
感動の内容は個人個人で異なるでしょうし、同じ体験をした者
同士が、互いの感動を伝えようと、時を忘れて語り続けても、
「自分の感動そのもの」を完全に伝えることは難しいと思います。
でも、同じ対象から感動を受けた者同士が、言葉で互いの得た感動を
反芻しあうのは至福のひとときなのかもしれません。

 ※ ご指摘を受け、文章を手直ししました。6月5日

 
 
posted by student at 23:19| 日記

2006年06月01日

enlightenment 〜黄金色の麦畑&田植え〜

 国道175号線を北に走って、中古瀬南の交差点を過ぎて加東市に
入る途端に、麦畑が広がる風景を目にします。収穫前の麦が、
朝の光を浴びて輝いている様子は幻想的にも見えます。

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 半逆光で輝く麦畑

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 朝日を受けて輝く麦畑 

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 麦畑の中を走る旧社(やしろ)町の町道

 同じ兵庫県の稲美町は、麦茶用の麦の栽培が西日本一だそうで、
加東市の麦畑も麦茶用かもしれません。減反で転作も多いかも
しれませんが、国産の小麦が重宝がられたり、焼酎の原料としても
増産されているようで、ここ数年、麦畑がかなり増えたような
気がします。

 神戸の神出辺りでは、かなり田植えもすすんでいます。         
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 よく見掛けるのが、田んぼに蛇口があって、そこから農業用水が
田んぼに張られています。ほんとうに便利のような気がします。


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《今週の授業より》

 "enlightenment"という言葉は、そのまま訳せば「照明」という
言葉になるのでしょうが、ただ、一般的な意味での「照明」は、
"lighting"の訳語と定着しています。ですから"enlightenment"と
いう言葉は、具体的な意味ではなくて、抽象的な意味としての
「啓発」という言葉が訳語になっています。

 "enlightenment"という言葉にとっては、もちろん「光」が重要な
意味を持つわけですが、その「光」は、人間が本質的に持っている
もので、磨くことによって、自ら光ることによって、その人が輝く
ものなのか?それとも光は人間の内側にはなくて、外から光を受ける
ことによって、照らされて、その人が輝くのか?

 教育にとっても、もちろん大切な問題のように思います。生徒が
持っている本来的な個性・資質を、教師はサポート役として磨いて
輝かせることが重要な役目なのか?それとも、生徒が光に当たる
ように誘導して、なおかつ生徒自身を磨いて、生徒が光を受けた時に、
その光をしっかり受けて輝くようにするのが教師としての役目なのか?

 光を避けて、暗闇の中を彷徨う生徒、或いは光を嫌い、自らの光
をも黒い服で覆うようにして闇に向かう生徒。光の強さによって闇が
なくなればいいのですが、闇が大きいと、なかなか光が届きません。
闇の中で光が弱くなって、輝きを失ってしまって、蛍の光のように
弱くなってしまっても、でも光をひたすらに見つめることによって
光は輝きを増すのかもしれません。

 「影」、光の眩しさに、影が落ち着くような気がすることがあります。
これからの季節、眩いばかりの太陽を避けて、木陰に逃げたりします。
「光と闇」に対して、「光と影」のコントラストは、教育にとっても
大切なポイントではないかなあ〜と、麦畑の黄金色の風景とオーバー
ラップさせながら、思いを巡らせながらの授業でした。

  
posted by student at 21:32| 日記