舞子は“山田村”と呼ばれていました。山陽電鉄
西舞子駅辺りに流れる川が山田川で、この川の河口
付近が以前の山田村の中心地だったようです。以前の
駅名が“山田”で、村の中心地だった名残が、西舞子
駅前の商店街のようです。
明治22年に市制町村制が施行されて、その時に
西垂水村、東垂水村、塩屋村、下畑村、山田村、
多聞村が合併して“垂水村”となって“垂水村大字山田”
となりました。その後、“垂水町”となって、昭和
16年に神戸市に編入されて“神戸市須磨区垂水町山田”
となりました。今は垂水区の舞子です。

舞子の浜・アジュール舞子、砂浜が流出していたのを
明石海峡大橋の開通の時に整備した人工浜です。私の散歩
コースで、夏は海水浴で賑わいます。

(この写真をクリックすると拡大されます)
明石海峡大橋、淡路や四国への架け橋、まさに阿波路
です。この大橋の直下から眺める海峡や淡路の風景が
好きです。

舞子からアジュール舞子の砂浜沿いに東に歩くと
ポルトバザール、その中にヨットハーバーがあります。
時期によっては、ちょうど本州と淡路の間、明石海峡
の真ん中に夕日が沈み、海峡を真っ赤に染める風景は
絶景です。
*
舞子の浜にある舞子ヴィラと移情閣(八角堂)に
ついて…
舞子には、烏崎城というお城がかつてあり
ました。 将軍足利義教が暗殺された「嘉吉の乱」
(1441年) において、義教を暗殺した赤松満祐と
教康の親子は 追われて、この舞子の浜の烏崎に城を
構え防戦し、舞子 一帯も戦渦に巻き込まれたそう
です。
その烏崎城址に、明治20年代に入って、有栖川宮
熾仁親王が別邸を建てました。当時の舞子は山陽鉄道
(現・JR神戸線)が開通して、神戸・大阪からも
便利になった景勝の地だったようです。
舞子の烏崎城址に別邸を建てた有栖川宮熾仁親王
という方は、幕末に孝明天皇の皇妹和宮様と婚約して
いました。その後、公武合体策の一環として和宮様は
徳川家茂と結婚することになり、熾仁親王との婚約は
破棄されたのですが、有吉佐和子 さんの小説「和宮様
御留」の中でも”有栖川宮様” の名前は何度か登場
します。
有栖川宮熾仁親王は、その後明治天皇の篤い
信望も あって、日清戦争では陸軍大将の地位にあり
ました。 戦中に病に倒れて舞子の別邸で長く静養され
ていた 時期もあったようです。ちなみに「宮さん宮さん、
お馬の…」というトコトンヤレ節の宮さんとは、陸軍
大将・熾仁親王だそうです。
その後、烏崎城址に建てられた別邸は、戦後は廃墟
のようになってしまって、その跡地に建てられたのが
舞子ヴィラです。その中でレストランの名前として
“有栖川”は残っています。東京の広尾にある有栖川宮
記念公園は、有栖川宮の邸宅跡だったと思います。
移情閣(八角堂)は孫文と所縁が 深い建物です。
数年前に訪日した国務院の朱鎔基総理は 神戸に立ち
寄って移情閣を訪問しています。
*
私が住んでいるのが、このアジュール舞子の北に
広がる住宅地です。2階の窓からは明石海峡大橋を
望むことが出来ますが、海は見えません。浜風が
強いと、潮の香がしますし、台風の後は、外壁に
塩が…