9月26日の日記で中世までの山陽道(古山陽道)の
話題の中で、“赤石の櫛淵”(現在のJR神戸線須磨駅と
塩屋駅の間)のことに触れましたが、もう少し詳しく…
(下の2枚の図は、それぞれクリックすると拡大します。)

摂津名所図会が刊行されたのが寛政年間ですから、今から
200年ほど前、江戸も後期になります。八部郡の巻が
上下2巻あって、その中で摂津の最果ての鉢伏山、敦盛塚
の図があります。大阪大学附属図書館では、第一巻の住吉郡
のみネットで公開されていますが、八部郡は残念ながら…
中世になって、須磨・塩屋間の断崖沿いの海岸線に砂が
堆積して海岸線沿いに山陽道の経路が変更された記録は
あるのですが、砂の堆積が、長い年月をかけて徐々に砂浜が
形成されたのか?それとも地震等の影響で、短期間で断崖
沿いに砂浜が形成されたのかは定かではありません。
この200年前の図版は、ある程度のデフォルメもある
でしょうが、少なくとも断崖沿いの狭い砂浜の「難所」
ではなかったことと思います。地震等の影響で、短期間で
断崖沿いに砂浜が形成されたのでしたら、中世以降の摂津と
播磨の国境の山陽道は、このような景色が1,000年近く
続いていたものと推測されますし、徐々に砂が堆積して
砂浜が形成されたのでしたら、平安期の山陽道は、まだまだ
断崖沿いの狭い砂浜を踏み固めたような道筋だったのかも
しれません。
寛政年間や天保年間の絵図や図会を見ると、須磨に西には
敦盛塚の辺りに茶屋があって、その西は滝の茶屋辺り。
塩屋川、福田川、山田川の河口には漁村があって、休憩する
処もあったのかなあ〜と推測します。
山陽道の駅(宿場)は、兵庫の次が明石になっています。
荒天時には、多井畑道や白川街道を経由する人もあったと
思いますが、近隣在住以外の人は、鉢伏山を北に迂回する
遠回りのルートを使うことは少なかったのではないかと
思います。
神戸市内には、旧西国街道という案内板と共に徳川道
という案内板が見受けられます。徳川道は、慶応年間に
兵庫開港が開港した時に、外国人と参勤交代の列が
トラブルを起こして生麦事件の二の舞となるのを避ける
ために、「西国往還付替道」としてつくられたものです。
「徳川道」と呼ばれるようになったのは明治に入って
からで、その後、神戸の港や居留地だけを避ける
小さな迂回路が出来たので、徳川道は参勤交代では、
ほとんど使われることなくその使命は終わってしまい
ました。

摂津国名所旧跡細見大絵図は、天保年間に刊行されて
いますので、今から170年ほど前になります。その
絵図の八部郡辺りを見ると五畿内最西の様子を窺い知る
ことが出来ます。
綱島天満宮の北を通って、今の県道21号線やJR神戸線
辺りの経路を通って兵庫の町に到っていたように感じます。
東から東須磨、西須磨そして今のJR須磨駅辺りを過ぎると
鉢伏の山が迫る砂浜の中の松林を一ノ谷、二ノ谷、三ノ谷を
経て敦盛塔、そして境川を渡って播磨の国に到っています。
敦盛塚には、当時は供養塔があって、その近くには茶店が
あったそうで、「敦盛そば」が名代だったようです。
景勝の地であり、西国諸国からは、国境を越えて畿内
に入った最初の茶店でもあり、参勤交代の大名も、ここで
休息して敦盛そばを食べたそうです。
多井畑道は、妙法寺川を上って、おおむね今の県道22号線
に沿った経路で横尾山の北を迂回して多井畑を経て塩屋川
沿いに下畑に到っていたようです。その先は塩屋だったのか、
それとも滝の茶屋の王居殿辺り(旧・ 転法輪寺)辺りに
到っていたのかは、この絵図からはわかりません。
白川街道は、妙法寺から車(今の啓明学院の辺り)を経て
白川・落合に到って、そこから布施畑大山寺を経て明石に
到っていたようです。
posted by student at 07:54|
日記