映画の山田洋次監督、 最近では「たそがれ清兵衛」、
「武士の一分」そして今月末には「母べえ」が公開予定です。
「男はつらいよ」の寅さんシリーズが有名ですが、私は初期の
「家族」や「故郷」が好きです。

そして「学校」というシリーズがあります。学校は夜間中学、
学校Uは養護学校、学校Vは職業訓練校、そして学校W
(十五才)は不登校を扱っています。

この「学校」を見ていて、ふと、いつから学校と呼ばれるよう
になったのか調べてみました。
明治5年の『学制』と呼ばれる太政官布で学区制として
大学、中学、小学が制定されて、日本を8大学区に分け、
それぞれの大学区を30余りの中学区に分け、それぞれの
中学区を 200ぐらいの小学区に分けて、各地に
初等教育である尋常小学 の教育を行なう場である
尋常小学校ができたようです。
学制以前は・・・神戸近辺では明治2年に大阪に舎密局
(せいみきょく)が誕生しています。後に第三高等中学校
となり、京都に移って旧制の第三高等学校、そして京都帝国
大学になりましたが、発足当初は“学校”ではなくて“局”
でした。ちなみに舎密(せいみ)とは化学のことです。
東京には明治4年に工学寮が誕生しています。後に工部
大学校となり、帝国大学工科大学になりましたが、発足当初は
“学校”ではなくて“寮”でした。
江戸期には、庶民は寺子屋、武士は各藩の藩校、そして幕府の
昌平坂学問所、更に郷学や私塾があったようです。ちなみに
“藩”という言葉は明治期以降の用語で、江戸期には使われる
ことがなかったようです。
もちろんも江戸期には藩校という表現はなく、名称も花畠教場
以下「〜館」、「〜堂」、「〜舎」がほとんどで、それ以外には
「学問所」、「稽古所」という名前が見受けられます。江戸期に
学校を称したのは足利学校と閑谷学校ぐらいでしょうか?藩校が
最も盛んだったのは江戸末期から明治の2〜3年ぐらいまでの
期間です。藩そのものの興亡を人材育成・教育に掛けたのでは
ないかと思います。
江戸期の私塾も「〜塾」、「〜院」、「〜堂」、「〜軒」
という名称で、学校という名前は使われなかったようです。
「学校」という名称は、どうも明治5年の学制で制定された
大学、中学、小学のそれぞれの教育を行なう場所という意味で
「校」の字をつけたようです。「館」や「堂」、「院」や「塾」
ではなくて何故「校」なのか…、わかりませんでした。ただ
あくまでも制度としての大学、中学、小学に対して、それぞれの
教育を行なう場として「校」の字を付けたということで、
「学校」という言葉を造語したわけではないようです。
「館」や「堂」では、それまでの藩校や私塾のニュアンスが
まとわり付いているので、ほとんど使われていなかった
「校」となったのかもしれません。
最初に「学校」を公式名称として使ったのは、同じ学制で
明治5年に設立された東京の師範学校のようです。ですから
近代教育としての学校の第1号は東京の師範学校、現在の
筑波大学ということになります。現在は大学で、schoolでは
ありません。
schoolの語源はギリシャ語のスコラで、知を愉しむという
ようなニュアンスが強い言葉です。しかし日本に導入された
時には、“知を愉しむ”というニュアンスは小さくなって
近代教育の場としてのschoolでした。一斉授業形式で効率的な
教育を行う場としてのschoolであり、それを日本が導入した
かったわけです。
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中国でも現在は学校と言いますが、これもルーツを調べて
みました。
中国では清朝まで科挙の制度があり、それを支えたのが
私塾での私教育だったようです。清朝は〜学堂という名前の
学校を幾つかつくったようですが、一般には「〜塾」と
呼ばれる私塾に委ねられていたようで、識字率はかなり
低かったようです。
そして諸外国の侵略に遭って、清朝は教育の大切さを感じて
教育改革を行い、各村に初等小学堂を開設したようです。
これは日本の制度を倣ったようです。
中華民国になって小学堂が小学校と改称されたようですが、
これは日本の影響なのか、それとも独自のことなのかは、
ちょっとわかりませんでした。